The Duc Ngo


の高いフランス料理はフランス人しか作れない,と主張するフランス人はほとんどいないと思う。でも,本物の和食は外国人に調理できるはずがない,と思っている日本人はまだ結構いるかもしれない。特に,伝統的な純和食や江戸前寿司などはそうだろう。

ベルリンの寿司屋のオーナーは難民のベトナム人という南ドイツ新聞の見出しに惹かれ,テー・ドック・ノーの存在を知ったのは2010年代の初頭ごろだっただろうか。
彼はベルリンで寿司屋を開業してはいたけれども,その記事の骨子は彼の調理師としての才能を褒め称える内容だった。
その後,テレビにも顔を出すようになり,Tim Mälzerの番組Kitchen Impossibleに出演していたときは偶然ながら見た。モデレーターのティム・メルツァーと招待シェフとの対決番組。2人それぞれが世界のどこかで食した料理を対決相手にレストラン名を隠して試食させ,全く同じ料理作りに挑戦してもらう。そしてオリジナル料理と挑戦料理を数人の常連客がテストして点数を付ける,という,どこにでもありそうな構成自体は単純な番組。ただあまりに長い(約2時間)ので筆者はめったに見ない。

さて,この番組に出演したテー・ドック・ノーは落ち着いた態度ながらも,やんちゃで生意気な若者という雰囲気もあった。
しかし,調理中のスポット映像は別人のような真面目な青年。真剣で素直な表情に包まれていた。
ドイツ国内だけかもしれないけれども,彼の知名度は徐々に上がり,今では優れた料理人とした地位を確立している。実際にどれほど料理に関わっているか定かではないけれども,2023年2月現在ドイツで14軒のレストランを経営(共同経営含む)。
しかし,メディアで書かれる形容詞はいつも,ベトナム難民の,だ。

ベトナム人の母と中国人の父の下でベトナムで生まれ暮らしていた彼は,6才のときに父を亡くし,中国人への迫害が始まると同時に香港に逃れた後,母親と共に難民としてドイツに渡り,その後ベルリンで大学まで進学。
面白いのは,彼は日本に関心があり,ベルリン自由大学で日本学も専攻していたことだ。
料理作りには小さいころから興味があったらしい。ドイツ人と再婚したお母さんが作っていた料理はおそらく主にベトナム料理・アジア料理だったのだろう。どろどろしたソースのドイツ料理は気持ち悪かった,と言っているから。

いずれにせよ,ベルリンの日本料理屋でウェイターとして働いていたころ,寿司の調理師の包丁さばきに魅了され,初めて米を洗わせてもらえたことが料理の世界に入る入り口だったという彼。寿司作りを習得した彼は,その後,寿司調理人としてモスクワで数年働いて溜めた金を資金の元手にベルリンで起業,日本食で。

わずか数年間で日本料理の基礎の習得からレストラン開業まで成し遂げた経歴をみると,才能,努力,事業成功への向上心を備えていたのは確かだろうけれども,興味深いのは彼の日本食に対する異常とも言えるほどの関心と,日本食は自分の料理の中核には違いないけれども出発点に過ぎない,という,目標や到達点は和食では無い点だろう。

何でもいいけれども,僕は自分が食べたい料理を作り,それを客に出したいだけ,とシンプルに説明するテー・ドック・ノー。
日本に行った際は和食勉強に励み,食べ歩きも貪欲に行ったことは間違いない。
同じ料理,特にラーメンなど,日本で経験した,店ごとに異なる多様多彩な味に驚いている。

自分の味覚と日本のラーメン屋歩き体験の結果がベルリンのココロラーメンとなった。
今では日本のようなラーメン屋がヨーロッパ各地に開業しているけれども,2000年代に入るまでは,ラーメン専門店の絶対的な少なさだけではなく,味の多彩さにも欠けていた。
ただ,筆者はそれほどラーメンが好きなわけではないこともあり,正直言ってなぜ彼が中華蕎麦ではなく,日本ラーメンに焦点を定めたのかが分からない。

テー・ドック・ノーはいとも簡単に述べる。
「日本ではどこでもあり,あんなに美味しいのに,どうしてヨーロッパ,ドイツにないのか分からないよね。だから,じゃぁ作ってやろうじゃないかって感じで始めただけ。」

日本人によるネットでの評価を読む限り,数年前まではベルリンでラーメン食べるならココロと云う人が多かった。おそらくみんなココロは日本人による本物の日本のラーメンと信じていたのだろう。
でも,当然ながらレストラン業は「味」だけでは成功しない。
事業の才は,ほとんど彼の記憶にはない父親譲りかもしれない。

アイデンティティーというのが人間にどれほど影響を与えているか分からないけれども,6才で生地から移動したのは彼にとってラッキーだったと思う。
偶然にしてもコスモポリタンになる理想的な年齢だと筆者は信じている。
5-10才ごろまでの幼児はどのような言語でも即覚えてネイティブ同様の聞く話す能力を身につけるけれども,そのころ離れてしまうと即忘れてもしまう。

つまり,テー・ドック・ノーは見かけはアジア人でもヨーロッパ人と同じ価値感を共有する新世代の純ドイツ人だろう。意識の底でアジアを感じながらドイツ語で思考しているドイツ人。
ベルリン市民の3人に1人のルーツは非ドイツだから,幼いころから多国籍・多文化の環境で育ったに違いない。
また,お母さんのベトナム料理も美味しかったのかもしれない。

料理の世界のトップクラスの仲間入りを果たしても,将来の料理界は予想がつかない,自分の料理の方向についても分からないと言いつつ,南米の某料理の調理法がおもしろいと言うテー・ドック・ノーのようなセンスは,日本料理を世界に広めると共に,料理界に寄与できる将来のコスモポリタンな日本料理の形を探る大きなヒントを秘めているような気がする。

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